設立とその経過
前橋藩の記録「橋藩私史・下」慶応四年(1868年)7月12日の記述に「三野半兵衛・内野台八・大川平兵衛、錬武場教授方に嘱せらる」とあり、この大川平兵衛(神道無念流)の門弟たちは、明治維新後の廃刀令による剣道の衰退と伝統的精神文化の荒廃を憂慮し、館内一(川越藩の世臣)ら9名が発起人となって明治11年(1878年)養気館(前橋市曲輪町瀧澤氏宅地内)が設立された。
ここで、修業を重ね大成した高弟たちが明治中期以降の剣道復興に果たした功績は顕著である。明治28年(1895年)には奥平鉄吉(神道無念流)らによって「前橋尚武会」が結成され、同じ年、大日本武徳会が組織されるや、群馬県にもその支部が結成された。それを機に養気館の建物一切が武徳会群馬支部に寄贈され、養気館は解散した。
明治35年(1902年)10月20日、寄贈された資材によって群馬支部武徳殿が前橋市曲輪町(現前橋市大手町1丁目、前橋地方検察庁があるところ)に完成した。以来、明治・大正・昭和の長きにわたり、多くの剣士をはぐくんできた武徳殿は、群馬県剣道界のメッカとして発展した。
昭和17年(1942年)3月、大日本武徳会は改組され、会長に東条英機首相、副会長に陸軍大臣・海軍大臣らが就任し、臨戦態勢に組み込まれた。戦局はますます厳しさを増し、前橋からも多くの逸材剣士が戦場に送られていった。
昭和20年(1945年)8月5日、前橋大空襲により群馬県武徳殿は焼失し、8月15日終戦。大日本武徳会は国家的武道団体として軍国思想の中核をなしたとして、連合軍の占領政策により昭和21年(1946年)10月、解散を命ぜられ財産は没収された。
学校、警察における剣道は禁止され、連綿として活躍してきた前橋尚武会は、結成以来半世紀にして停止を余儀なくされた。昭和23年(1948年)ごろになると、一般社会人や剣道愛好家による私的な稽古やクラブの結成は規制されないことがわかり、前橋市では富沢唯治郎(範士七段)や柴田正美(剣道範士七段・居合道錬士六段)らが中心となり、剣道復興のデモンストレーションとして、邑楽郡の米軍小泉キャンプを訪問し、剣道・日本剣道形の演武を公開し、米軍将校らの喝采を得た。
昭和25年(1950年)、市内在住の剣道家が集まり、剣道クラブを結成した。同年10月、前橋市商工祭の協賛事業として前橋公園児童遊園地で、会長富沢唯治郎、大会委員長新井政治らが中心となって剣道大会が開催された。市内はもとより県内各地から大勢の剣道家が集まり、苦節多年の逆境を越えての大会に、肩を叩きあい手を握りあって大会の成功を喜びあった。
また、当時の前橋警察署長今成磯吉(後の前橋市助役)は、戦後の社会秩序の頽廃を憂い、昭和26年(1951年)10月、国道17号線沿いの丸ト製糸場(現前橋市国領町2丁目)を借り受け、民警合同の稽古会を行い剣道復興に貢献した。戦後低迷していた前橋市の剣道を語るうえで、当時の指導者が果たした努力は特筆すべき功績であろう。
昭和26年(1951年)4月、剣道クラブ改組し、富沢唯治郎らによって「前橋市剣道連盟」が結成された。同年11月、群馬県剣道連盟が結成されたのでその傘下に入り、「群馬県剣道連盟前橋支部」と改称した。
また、平成21年5月に(2009年)行政改革の一端として地方分権推進の目的で勢多支部(大胡町・宮城村・粕川村・富士見村)との合併となり県内最大の支部となる。
初代支部長には富沢唯治郎が就任し、つねに県の中心的存在して活躍した。二代目秋山福三郎、三代目川田四郎、四代目関口勇市、五代目松本忠男、六代目池田伊一を経て、七代目支部長渡邉達郎に引き継がれ現在に及んでいる。
(平成9年(1997年)12月発行・前橋市剣道連盟誌より)
※一部追記あり
勢多郡の変移 (勢多支部誌より)
剣道連盟勢多支部が発足(結成)された昭和27年(1952年)当時から平成20年(2008年)までの構成町村については概ね以下のとおりである。
そもそも現在の勢多支部とは、明治29年(1896年)南勢多郡と東群馬郡の合併によりできたものである。
東群馬郡は、前橋町、上川渕村、下川渕村で構成されていた。
南勢多郡は、南橘村、北橘村、横野村、敷島村、富士見村、芳賀村、桂萱村、木瀬村、荒砥村、大胡村、宮城村、粕川村、新里村、黒保根村、東村で構成されていた。
これらの町村の編成は明治22年(1889年)の第一次合併によって構成されたものであり、それ以前はさらに細分化していた。
また、南勢多郡は北勢多郡とともに勢多郡であったが、明治21年(1878年)に南勢多郡と北勢多郡に分かれ、南勢多郡と東勢多郡が合併する年に利根郡に編入されている。参考までに北勢多郡を構成していた村は、久呂保村、糸之瀬村、赤城根村である。
昭和26年(1951年)に桂萱村三俣の一部が、同年3月に、上川渕村、下川渕村、芳賀村、桂萱村が、同年4月に、南橘村が、同年9月に前橋市に編入された。
昭和42年(1967年)5月に城南村が前橋市に編入されるまで、郡内外の合併を繰り返していたが、その町村数は変わらず現在の勢多郡を構成していた。
昭和の大合併が終了し、各町村は、北橘村、赤城村、富士見村、大胡町、宮城村、粕川村、新里村、黒保根村、東村の一町八村で勢多郡内の行政単位として長い期間それぞれ発展を遂げてきた。
平成に入り行政改革の一端として地方分権推進の目的が推奨されるようになると、勢多郡内の町村も例外でなく、周辺自治体と合併を余儀なくされる。
平成の大合併では、勢多郡内で最も早く行われた合併は、平成17年(2005年)12月大胡町、宮城村並びに粕川村が前橋市に編入される合併であり、同年6月には、新里村並びに黒保根村が桐生市に編入される形で合併が行われた。
平成18年(2006年)2月に北橘村並びに赤城村が渋川市に編入合併され、同年3月には、東村が山田郡大間々町と新田郡笠懸町と対等合併し、みどり市となった。
平成20年現在、勢多郡を構成する村は富士見村のみとなっているが、平成21年(2009年)5月に前橋市と合併することが決まっており、これにより古くより当地に伝わってきた「勢多」という地名は消えることとなった。